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語ることと語らないこと(國分功一郎『哲学の先生と人生の話をしよう』を読んで)

 

哲学の先生と人生の話をしよう

哲学の先生と人生の話をしよう

 

 

〇概要

メルマガで連載していた、哲学者・國分功一郎の人生相談コーナーのまとめ本。

相談相手の文面を、まるで哲学者が書き残した文章のように一つのテクストとして読解(あとがきより)

している点が最大の特徴。

 

〇感想

相談内容への著者の回答を読むと、いくつかの特徴に気づきます。

それらを

  1. 相談者が「語らなかった」ことの重視
  2. 具体的な出来事・問題の記述の重視
  3. 「相談する」という行為自体の意味の重視
  4. 「誰かに(と)話す」ことの重視

 の4点にまとめようと思います。

 

☆1.について

書かれていることだけを読んでいてはダメである。途中で気がついたのだが人生相談においてはとりわけ、言われていないことこそが重要である 。人は本当に大切なことを言わないのであり、それを探り当てなければならない。(あとがきより)

クソみたいな感想で申し訳ないが、「ほんと、そうだね」と思いました。

「結婚生活」に関する悩みなのに妻のことがほとんど書かれていない質問6や8がこれにあたります。

 

多くの場合、「語ったこと」は「知ってほしいこと」であり、「語らなかったこと」は「隠したいこと」な気がします。

人間がわざわざ隠してることなんだから、その人にとって重要なことなのは自明でしょう。

そして、それこそがその人の悩みの突破口となり得るのかもしれません。

 

☆2.について

どんな悩み(問題)も一般的 ・抽象的である限りは解決しないのです。いかなる問題も個々の具体的状況の中にあります。そして個々の具体的状況を分析すると、必ず突破口が見えてくるのです。

しかし、悩み(問題)が一般的・抽象的である場合には、そうやって分析する情報がほとんどない。だから、Aとも言えるがBとも言えるというような対立に陥ってしまって、答えが出ない。(質問24より)

きっと、研究者である著者の仕事もそういうものなのでしょう。

問いを具体的にしないと(ロジカルシンキング本的に言えば、ブレイクダウンしないと)答えが出せません。

 

僕が卒論の構想を練っていた時も、最初の問いが壮大過ぎて、とても答えが出そうなものではありませんでした。

ゼミや先生との議論の中で、何とか書けそうな問いまで持っていくことができました。

(その他色々な面でショボい卒論になってしまったけど…)

 

話を戻します。

この本では、このような研究における「問いを明確にする」手法を、人生相談に当てはめているように感じました。

 

☆3.について

著者の回答をいくつか読むと、

「そもそもこういう相談をしているということ自体、◯◯さんが△△と思っていることの表れでは?」

という論法が多いことに気付く。

 

例えば質問14では、相談者は恋人がいながら風俗に通ってしまう自分の行動に「罪悪感は無い」と書いているが、そもそもその事について相談している時点で「悩んでいる」ことは明白であり、「いけないことなのかもしれない」と思っているのではないか?という具合である。

 

この点に関しても、文章の内容だけでなく、それが書かれた背景まで考察対象にする「研究者っぽさ」を感じました。

 

☆4.について

著者が提案している、相談者が現状から抜け出すための方策には様々なものがあります。

その中でも多いのが

「誰かと話す」「誰かに相談する」

というものです。

「つらいことは人に話すと楽になる」ということを繰り返し強調しています。

 

この点については、質問28「相談というのは、どうやってすればいいのでしょうか?」に詳しく書かれています。

著者は「相談」という行為を「観念の物質化」と言い表しています。

頭の中の言葉を、口に出すことで形にするイメージでしょうか。

「相談する」と考えるのではなく、「とりあえず考えていることを形にしてみる」という感覚で誰かに投げかけてみることで、「誰かに話す」ことの効用を実感できる、というようなことを言っています。

 

では、「相談する」となぜ楽になるのか。

著者によると、この謎は哲学的には全く未解明だそうです。

個人的には、頭の中で考えていることを言葉にする(物質化する)ことで、問題の輪郭がはっきりして扱いやすくなるからでは…と思ったりしますが、いまいち抽象的で上手く説明できません。

この謎については、これからも考えていきたいです。

 

◯まとめ

全体を通して言えるのは、著者は相談者が語ったこと(あるいは語らなかったこと)から様々な事を読み取っているということです。

そこには、哲学者の言葉を読み取ってきた著者の哲学者っぽさが出ているように思います。

 

色々な相談がありましたが、どれも生々しくて、どこか自分に当てはまるものもあったりして、読みながら終始自分のこれまでの行動を振り返っていました。

オススメの本です。

日系外国人の自己 ―日系アメリカ人の戦争証言(NHK「戦争証言アーカイブス」より)に関する自己論的考察―

卒論が限界なので、何かヒントはないかと自分が過去に書いたものを読み返してたら、なんか面白いのを見つけたのでブログ用に要約して載せてみました。

 

◯はじめに

終戦後70年を迎え、実際に戦争を体験した人々が世を去るのと同時に、彼・彼女らの体験を後世に残そうとする取り組みが盛んに行われています。

その代表例がNHKがホームページ上で公開している「戦争証言アーカイブス」です。

これは、主に太平洋戦争の真っただ中を生きた人々にインタビューを行い、その映像をインターネット上にアップロードしている取り組みです。

 

僕は教職課程の模擬授業で使うためにそれらをたまに観ていたのだけど、同じ時期に履修していたミクロ社会学の授業で、先生が生徒からの以下のようなコメントを紹介しました。

「私は在日コリアン3世として日本で生まれ育ち、日本にある朝鮮学校に高校まで通っていました。生活母語は日本語ですが、国籍は韓国です。このような混交的なアイデンティティを持つ私は、①小学校から高校まで通った朝鮮学校の友人に見せる自分、②大学でできた友人に見せる自分、③アルバイト先で見せる自分にそれぞれ異なる"国"をあてがい、①では朝鮮人としての自分、③では日本人としての自分、という奇妙な"私"を演じています。」

このコメントに対して先生は、

「国籍や民族に関わるアイデンティティは社会的な状況によってしばしば先鋭に多元化します。これが各人の生活のあり方をどのように組織することになるのか、それ自体が社会学的に切実で重要なテーマだと思います。」

と回答していました。

 

日本生まれ・日本育ちで、旅行でしか海外に出たことがない私は、このコメントに大きな興味・関心を抱きました。

そこで、上記のコメントのケースと似ていて、かつ戦争という状況でその特徴が鮮明に浮かび上がっていると考えられる戦時の日系アメリカ人を分析してみようと思います。

 

私の仮説としては、戦時の日系アメリカ人も上記のコメントにあるような現代の在日コリアンのように形式上の国籍と実際のナショナル・アイデンティティの狭間で揺れ動いていたのではないでしょうか。

アメリカ国籍でも、日系人コミュニティの中での日本式の教育によって醸成された日本人としてのアイデンティティがあったのではないでしょうか。

 

以下では、「戦争証言アーカイブス」の中から日系アメリカ人へのインタビュー(28人分)を抽出し、そこで語られる内容の分析を通して彼・彼女らの自己像を浮かび上がらせ、仮説を検証しようと思います。


◯歴史事項の確認

まずここで、扱う歴史的事項を確認します。

 

日系アメリカ人とは、日本にルーツのあるアメリカ合衆国市民のことで、インタビューを受けている人々の多くは戦前のアメリカ移民の二世であり、アメリカで生まれ、少なくとも幼少期まではアメリカで過ごしています。

 

太平洋戦争は、第二次世界大戦時、大日本帝国の拡大を目的に攻め入る日本と連合国の間で起きた戦争です。

開戦時にアメリカにいた日系アメリカ人は敵性外国人として各地の収容所に強制収容されました。

そこで彼・彼女らは「忠誠登録」という「アメリカ軍に入るか?」「アメリカに忠誠を誓うか?」という質問に答えさせられます。

この二つの質問に「ノー」「ノー」と答えた者は「ノー・ノー・ボーイ」と呼ばれ、さらに危険な敵性外国人としてトゥールレイクの収容所に集められました。


◯事例(証言VTR)の検討

次に、「戦争証言アーカイブス」に掲載されている日系アメリカ人28人分の証言VTRを分析します。

(※本記事では簡単な分類結果だけ記します。)

 

まず、彼・彼女らを「戦時にどちらの国にいたか」「日本式の教育を受けたか」「ナショナル・アイデンティティはどちらにあったか」という要素で分類します。

 

インタビューを受けた全28人の内、戦時にアメリカにいたのは7人、日本にいたのは21人でした。

 

次に、戦時にアメリカにいた7人をさらに分類します。

インタビュー内容から全員が親に日本式の教育を受けていることが分かりました。

そのうえで、ナショナル・アイデンティティアメリカにある人は1人、最初はアメリカにあったが戦争を通して日本に変わったのが2人、元から日本にあったのが4人でした。

 

次に、戦時に日本にいた人々の分類を行います。

これらの人々も全員が日本式の教育を受けていることが分かりました。

しかし、日本語が堪能といえるのは11人、日本語に不自由があったと話していたのは10人でした。

このような言語に不自由があった人にはネガティブな戦争体験内容が多く見られました。

戦時に日本にいた人でかつ日本語に不自由があった人の中で、自分のナショナル・アイデンティティを日本に合わせたと感じているのは6人、最後まで馴染めず、終戦後はアメリカへ渡ったのは4人でした。

日本語に不自由を感じていた人々は連鎖的に文化等にも馴染めず、中には終戦後にアメリカに渡った人もいることが分かりました。


◯考察

僕は日系アメリカ人のアイデンティティは教育によって変わり、日本式の教育によって日本人としてのアイデンティティが芽生えていたのではないかと仮説を立てていました。

しかし、実際は居住地に関わらず全員が日本式の教育を受けており、その上で日本人として、アメリカ人として、両方としてのアイデンティティを持っている人々が存在していたことが分かりました。

 

特に、日系二世の鮫島等さんは、アメリカ生まれアメリカ育ちであるため、日本式の教育を受けていようとも、日本のために戦うことは考えられなかったそうです。

教育がその人のナショナル・アイデンティティに包括的に関係するとは限らないことが分かります。

 

一方で、教育の中でも言語教育が日系アメリカ人のアイデンティティ形成に大きな役割を持っていることが分かりました。

戦時に日本にいた日系アメリカ人の中でも、十分な日本語教育を受けていなかった人は、その後の日本や日本軍での生活において何らかの不自由を感じていました。

その中には終戦後にアメリカに帰化した人々もいるため、日本語の不自由によって相対的にアメリカ人としてのアイデンティティが強まったのではないでしょうか。

 

さらに注目したいのは、両方のアイデンティティを同程度持ち合わせていた人々の存在です。

僕は仮説において日系アメリカ人のアイデンティティの揺らぎの存在を指摘していましたが、このように両方のアイデンティティを持ち、両言語が堪能な人々は自身の置かれている状況によって自己を使い分けていたことが分かりました。

例えば、マイク・イワサキさんやサトル・トヨダさんは、戦時は日本兵になり、終戦後は豊かなアメリカに住みたいという希望からアメリカの市民権を得ています。

このように両方のアイデンティティを状況に合わせて上手く使い分ける人の存在は、現代で用途に合わせて自己を使い分ける人々に通ずる点があります。

 

社会学者のジグムント・バウマンは、ナショナル・アイデンティティは帰属の危機を経てネーションステートに所属することで生まれるとしました(Bauman[2004=2007: 48])。

今回の分析を通して、日系アメリカ人のように複数のナショナル・アイデンティティを持つ人には、戦争などの要因によって帰属の危機が訪れると、その時の感情や状況に合わせてどちらに所属するか、どちらのアイデンティティを持つかを選ぶ過程が存在していることが分かりました。


◯まとめ・課題

この記事では、NHKの「戦争体験アーカイブス」を参照して日系アメリカ人の戦争体験インタビューを分析することで、彼・彼女らが戦争を通してどのようにナショナル・アイデンティティを形成したかを簡潔に論じました。

 

分析の結果、彼・彼女らの人生にはナショナル・アイデンティティを選択する過程が含まれていることが分かりました。

また、戦争を体験した日系アメリカ人には言語の習得状況が大きな影響を与えていたことがわかりました。

 

課題は、終戦後の日系アメリカ人の動向まで深く分析できなかったことと、この記事を書いても卒論は1文字も進まないことと、もうバイトの休憩が終わってしまうことです。

 

わずか28人分の分析でしたが、国家の枠を超えた人々のアイデンティティについて議論を深めることができました(と思っています)。


◯参考資料

NHK「戦争証言アーカイブス」http://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/smart/


◯参考文献

Bauman, Z. 2004, “Identity”, Polity (=2007,伊藤茂訳,『アイデンティティ』,日本経済評論社).

僕らはどうやって情報を仕入れるか?(天野彬『シェアしたがる心理〜SNSの情報環境を読み解く7つの視点〜』を読んで)

 

シェアしたがる心理~SNSの情報環境を読み解く7つの視点~

シェアしたがる心理~SNSの情報環境を読み解く7つの視点~

 


大規模なアンケート調査やインタビュー調査から、我々のSNSへの投稿動機を解明しようとしています。

Amazon Unlimitedで読めます。

 

読んでみると、今をときめく(?)若者としては「まあ、そうだよね」みたいな反応をしてしまう内容かもしれません。

若者社会・ネット社会で生きる中で当たり前だと思っていたことを改めて実証してくれている、という言い方もできます。

結論部分はググると出てくるので気になる人は調べてください。

 

じゃあなんでこんな文章をシコシコ書いているのか。

それは、我々の情報収集法の変化について述べている箇所が面白かったからです。

具体的には、今自分でも使った「ググる」が過去のものになりつつある、という部分です。

 

今回の調査からも、 SNSを使う目的として「情報収集・閲覧」を挙げるのが 52・3% という結果を得ている。 人とつながり合う場としての機能はもちろん、いまではSNSはニュースを得る場という色彩を強めている(本文より)

今回の調査というのは、電通総研が行なったアンケート調査のことです。

このように、我々はSNSを情報を得る場として認識し始めています。

 

そのような現象をこの本では

ググる」から「タグる」へ

と表現しています。

これまで、我々は情報を得たいなら即座に「ググって」いました。

しかし、これからはタグ(#〜)での検索に代表されるような、SNSでの「手繰る」ような情報収集が主流になっていくらしい。

 

この本では、このようなユーザー主体の、言い換えればボトムアップ型の情報収集が現代ネット空間の特徴だと述べています。

なるほど確かに、情報が氾濫している今のネット空間では、タグという1つの網である程度情報量を制限してから、手繰るように目当ての情報を探すのは合理的な行動かもしれません。

 

最近、SNSは良くも悪くも「情報を整理する機能」を持っているように感じます。

僕は正直、ググって出てきたよく知らんやつが書いたウェブ記事よりも、SNSで多少なりとも繋がった知り合いの投稿を信じます。

情報過多の時代に生きる僕にとって、Googleという大海原よりも、自分のフォローフォロワーしかいない池に閉じこもっていたほうが断然楽なんです。

僕にとっては、SNSの利用によって情報を集めるというよりも、目に入る情報を厳選している(と思っている)のです。

 

この「フィルタリング」の危険性については、様々な研究者が指摘しているところでもあります。大家で言えばキャス・サンスティーンが有名です。

#リパブリック: インターネットは民主主義になにをもたらすのか

#リパブリック: インターネットは民主主義になにをもたらすのか

 

フィルタリングによって、我々は自分にとって心地良い情報だけを仕入れるようになり、知らず知らずのうちに同族集団の中に閉じこもっていきます。

そして同時に、対抗する性質をもつ集団への理解が難しくなっていく。

SNS上の右翼vs左翼みたいな感じで。

 

僕を含めた現代人達は「自分主体」の情報収集をしていると思い込んでいます。

しかし、本当にそうでしょうか。

「フィルタリング」の心地よさに溺れているだけではないでしょうか。

 

まあでも、耳が痛い情報をわざわざ仕入れるのもどうかしてると思うんですよね。

皆さんはどう思いますか。

「皆さん」って、誰のことなんですか。

 

以上です。

ウェーバー → シュッツ → バーガー

この記事は知識の整理を目的としたノートです。

たぶん分かりにくいです。

 

◯はじめに

 最も代表的な社会学者の1人であるドイツの社会学者M.ウェーバーは、後に方法論的個人主義と呼ばれる考え方に基づき、理解社会学という立場を主張します。

 ウェーバーはどのようにしてこの立場にたどり着き、また彼の社会学理論はどのような形で後世に受け継がれ、発展していったのか。

 ウェーバー社会学的立場を紹介するとともに、それを受け継いだ社会学者たちの中からA.シュッツとP.L.バーガーを取り上げ、彼らの立場・理論をウェーバーのものとの関連性を踏まえて整理します。


◯M.ウェーバーの理解社会学

 M.ウェーバー(1864-1920)はドイツの社会学者であり、最も代表的かつ著名な社会学者の一人です。

 

 彼は大学で教鞭を振るう傍らで重い神経症に悩まされました。その結果、彼は研究生活から一時離れることとなってしまいましたが、このころから以前までの歴史学的な研究から、「文化科学としての社会科学の認識論的・方法論的な問題」(那須, 1997: 108)への研究に移っていきました。

 

 そうした中で書き上げられたのが彼の論文で最も著名とされる『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の”精神”』です。

 ウェーバーは自らの学問的立場を自己省察するとともに、自らが生きてきた西洋近代社会にも問題関心を向けました。彼はこの論文で、西洋における近代資本主義はプロテスタントの世俗内禁欲による合理的な職業労働が生み出した「意図せざる結果」であると論じました。

 

 ここで取り上げたいのは、この研究が歴史や社会現象の動因としての「理念」の重要性を強調した点です。

 ウェーバーは同時期に「理念型」という方法論を編み出しています。これは、

「無限に多様な経験的所与のなかから、一定部分を(~)価値関係的に選択し、それ自体無矛盾的な論理的なコスモスとして構成」(新社会学辞典より)

した概念です。

 これだけだと何が何だか全然分からなくてウケますね。

 つまり、学者の経験と信じる価値に従って、現象や理念を「理念型」として再構成するということなんだと思います。

 

 『プロ倫』ではプロテスタンティズムの倫理という理念を説明するために「価値合理的行為」という理念型が用いられました。これは「行為そのものの価値への信仰によってなされる行為」という意味であり、プロテスタンティズムの倫理をウェーバーなりに再構成した形です。

 

 そして、この「理念型」こそがウェーバー社会学的立場、「理解社会学」のキーワードとなります。

    理解社会学とは、

「集合的カテゴリーを当事者たちの《理解可能な行為》へと還元することによって説明していこうとする」(那須, 1997: 113)

社会学的立場のことです。

 ウェーバーは理念型によって人々の社会的行為を理解しようとしました。これこそが「理解社会学」の第一歩となっています。

 彼は社会現象を人々の社会的行為の集合と捉え、それらの行為の意味・原因を理念型という行為のモデルによって理解することで、その総体である社会現象のメカニズムを解明しようとしました。


◯A.シュッツの現象学的社会学

    上記で述べたウェーバーの立場を批判的に受け継ぎ、発展させたのがA.シュッツ(1899~1959)です。

 

 彼はフッサール現象学ウェーバーの理解社会学に応用する形で「現象学的社会学」という立場の祖となりました。

 

    現象学とはオーストリアの哲学者であるE.フッサール(1859~1938)の示した哲学的立場であり、

「現象とは体験されるもので、体験とは意識であり、意識とは何ものかへの志向性であると考え、これを記述することは、言語の能力ではなく、言語を介して、思惟することだと考える」(今道, 1987: 339)

というものです。

「事象そのものへ」というフッサール自身の掲げた目標にもあるように、記号や言語によってではなく、概念として論理的次元で事物を捉えようとする考え方です。

 フッサールはこの考え方に基づいて「理念化」という概念を編み出しました。これは、人々が過去の体験における事象を、それが反証されない限り未来においても継続または反復するという考え方です。

 

    シュッツは、ウェーバーの理解社会学が行為の「意味」を解明しようとしたことに着目して高く評価するとともに、その「意味」や「行為」をどのように理解すればいいのかという問いに答えきれていないと批判しました。

 そしてその問いへ答えるために現象学的アプローチを用いました。シュッツは上述の「理念化」の概念を用い、人々が日常的世界を自明なものとして捉えているとし、その自明性が「理念化」に基づく世界への「判断停止」に由来するとして、その自明性を帯びた日常的世界を再考するべきだとしました。

 

 例えば、我々は目の前の机の存在をわざわざ疑ったりはしません。それは我々が、その机が以前からそこに存在しており、これからも存在し続けるだろうという「理念化」を行ない、「目の前に机がある」という事象を自明なものとしているからです。

 シュッツの現象学的社会学は、このような

「当たり前として前提されているような事柄の仕組みに取り組む」(山本, 2010: 198=199)

社会学的立場といえます。


◯P.L.バーガーの社会構築主義

    最後に、ウェーバーの理解社会学の一応の着地点としてアメリカの社会学者P.L.バーガー(1929~2017)の理論を紹介します。

 

 彼は理解社会学現象学的社会学に基づいて「社会的現実は意識の一形態である」と主張しました。

 彼はこの主張に基づいてシュッツの現象学的社会学を発展させる形で「社会構築主義」という立場を確立しました。

 私たちは、

「社会的行為を通じてお互いに前提としている現実認識を確かめ合い、それをいわゆる常識として理解するようになる(~)この常識化された認識に基づいた人々の振る舞いは、紛れもない客観的現実として現れ、人々が共有する現実認識を強化していくのである。」(大河原, 2010: 202=203)

 このように、「社会構築主義」とは社会を社会的行為を通じた常識化の結果として捉える考え方のことであり、社会的行為の理解を通じて社会を捉えようとしたウェーバーの立場を発展させたものであることが分かります。


◯まとめ

    以上に述べたように、ウェーバーの理解社会学という立場は、彼の社会科学の方法論的な研究と西洋近代社会への問題関心のなかから確立され、シュッツが現象学的アプローチを取り入れることで発展し、バーガーによる社会構築主義となって社会の捉え方の一つとして実を結びました。

 このように、社会を個人の行為の総体として捉える方法を方法論的個人主義と言い、これは現在の社会学の大きな流れの一つとなっています。

 言わずもがな、この流れの祖となったウェーバーの功績は、計り知れないですね。

 

意外と書いてて楽しかった。

以上です。


◯参考文献

 

戸谷洋志『Jポップで考える哲学』講談社文庫

 

Jポップで考える哲学 自分を問い直すための15曲 (講談社文庫)

Jポップで考える哲学 自分を問い直すための15曲 (講談社文庫)

 

 

読んだきっかけ

教育実習に向けて、抽象的な事柄を噛み砕いて説明する手がかりを探してる最中、本屋で見つけて衝動買い

 

あらすじ

Jポップは、しばしば「自分」や「愛」「人生」をテーマとし、その歌詞は、シンプルであるがゆえに我々の胸に響く。一方、複雑な事象の本質を突き止め、露わにして見せようとするのが哲学ならば、両者は、密かに同じ企みを担っているとは言えまいか。Jポップの名曲を題材に誘う、今旬の哲学入門!

 

目次

第1章 自分

「自分らしさ」とは何か?-Mr.Children「名もなき詩

「自分ではないもの」から見える「自分」-ゲスの極み乙女。「私以外私じゃないの」

他者によって知られる「自分」-乃木坂46「君の名は希望

第2章 恋愛

私と他者の共同性ーAI「Story」

失われた共同性ー西野カナ「会いたくて会いたくて」

他者の他者性と向き合うことー宇多田ヒカル誰かの願いが叶うころ

第3章 時間

過去を記憶することーBUMP OF CHICKEN「天体観測」

未来を待つことーaiko「キラキラ」

この瞬間を生きることー東京事変「閃光少女」

第4章 死

絶望による死との直面ーRADWIMPS「おしゃかしゃま

死が照らし出す大切なものー浜崎あゆみ「Dearest」

他者の死を引き受けることーONE OK ROCK「A new one for all,All for the new one」

第5章 人生

日常生活の息苦しさと人生の不確かさー嵐「Believe」

自分の人生を決断することーSEKAI NO OWARI「RPG」

孤独に生きることへの祝福ーいきものがかり「YELL」)

 

感想

ただただ良い本だった。

 

JKとその先生が会話しながらJ-POPの歌詞を哲学的なテーマに沿って掘り下げていく本。

 

誰でも知ってるJ-POPを入り口にしているので取っつきやすいが、章の後半はかなり入り組んだ話をしてたりする。

でも、そういう箇所は作中でJKが疑問として先生にぶつけて、それに対して先生がJ-POPから少し離れた、例え話とかで説明してくれるので何とか理解できる。

逆に、JKが謎の理解力を発揮して噛み砕いて説明してくれたりもする。

 

個人的に恋愛の章は考えさせられた。

著者にとっての「理想の恋愛」みたいなのも感じられて面白い。

穿った見方かもしれないけど、女性が書いたらまた違う切り口になってるかもしれないな、とも思ったりした。

 

ブーバーについては全く知らなかったので興味を持った。社会学で言うとコミュニケーション論っぽい。

本書で取り上げられている『我と汝』はすごく難解らしい。

今度図書館でパラパラしてみようかな。

トム・クルーズ主演「マイノリティ・リポート」

 

 

・概要

マイノリティ・リポート』は、2002年に公開されたアメリカのSF映画。ドリームワークス作品。 フィリップ・K・ディックの短編小説『マイノリティ・リポート』をスティーヴン・スピルバーグ監督が映画化した作品で、トム・クルーズが主演した。 (wikiより)

 

・あらすじ

テクノロジーが進歩した近未来。警察は、殺人犯が殺人を犯す前に逮捕できるようになっていた。ところがある日、この犯罪予知部門に勤める刑事自身が容疑者となってしまう。(Amazon.comより)

 

・感想

Amazonプライムに追加されてたので観た。

結局こういう、ディストピア的・サイバーパンク的な雰囲気が好き。

 

二転三転するストーリー、陰鬱な描写、走るトム・クルーズが素晴らしかった。

あと、トム・クルーズの野球部みたいな髪型が良かった。走りやすそう。

 

犯罪の予知は「プリコグ」という3人の予知能力者を利用して行われていたわけだけど、さすがにあのやり方は酷くないか…?

そもそもあの手法で犯罪予知部門が設立されたこと自体に問題があるのでは…と思ってたら、何とまあ、そういうことだったのかという結末。

 

あと、「え、マイノリティ・リポートなんて無かったんですか…?」みたいな場面が好き。

あーいう絶望的などんでん返しがあると、主人公の次の一手に期待しちゃう。

 

今更この映画の感想垂れ流してる奴、あんまいないだろうな。

細見和之『フランクフルト学派』中公新書

 

 

・読んだきっかけ
 ハーバーマス入門のために

 

・目次

 はじめに
 第一章 社会研究所の創設と初期ホルクハイマーの思想
 第二章 「批判理論」の成立―初期のフロムとホルクハイマー
 第三章 亡命のなかで紡がれた思想―ベンヤミン
 第四章 『啓蒙の弁証法』の世界―ホルクハイマーとアドルノ
 第五章 「アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」―アドルノと戦後ドイツ
 第六章 「批判理論」の新たな展開―ハーバーマス
 第七章 未知のフランクフルト学派をもとめて
 おわりに
 フランクフルト学派関連年表

 

・あらすじ 

「ホルクハイマー、アドルノベンヤミン、フロム、マルクーゼ…。1923年に設立された社会研究所に結集した一群の思想家たちを「フランクフルト学派」とよぶ。彼らは反ユダヤ主義と対決し、マルクスフロイトの思想を統合して独自の「批判理論」を構築した。その始まりからナチ台頭後のアメリカ亡命期、戦後ドイツにおける活躍を描き、第二世代ハーバーマスによる新たな展開、さらに多様な歯想像の未来まで展望する。」

 

・感想

ハーバーマス入門のために買ったけど、読んでみたらフロムとベンヤミンが1番アツかった。

予備知識全然無かったけど、文体のおかげかとても読みやすい。

人物毎に代表的な著書やその中でも読みやすいものが簡潔に紹介されている親切設計。

 

詳しい人にとっては当たり前のことなのかもしれないけど、マルクスのマクロな視点にフロイトのミクロな視点を掛け合わせる手法は、「発明だな」と思った。

イデアは何かの組み合わせって言うけど、こういうことなんですね。


哲学・思想中心の学派ではあるが、「社会哲学」を志向した性質上、極めて社会学に似た雰囲気を持っているように感じた。

アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮である」に現れているような、自己を被害者/加害者両方に捉える批判理論的手法は、特に社会学っぽくて面白い。

 

卒論でハーバーマスをとりあげるので、その面でも第六章はとても参考になった。

『公共性の構造転換』読まなきゃ………