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Things you can live without knowing

橋は大事(ゲオルク・ジンメル「橋と扉」を読んで)

 

ジンメル・コレクション (ちくま学芸文庫)

ジンメル・コレクション (ちくま学芸文庫)

 

 

ジンメルのエッセー「橋と扉」を読んだ。

 

人間は 、事物を結合する存在であり 、同時にまた 、つねに分離しないではいられない存在であり 、かつまた分離することなしには結合することのできない存在だ 。だからこそ私たちは 、二つの岸という相互に無関係なたんなる存在を 、精神的にいったん分離されたものとして把握したうえで 、それをふたたび橋で結ぼうとする 。

そして 、同じように人間は境界を知らない境界的存在だ 。扉を閉ざして家に引きこもるということは 、たしかに自然的存在のとぎれることのない一体性のなかから 、ある部分を切り取ることを意味している 。たしかに 、扉によって形のない境界はひとつの形態となったが 、しかし同時にこの境界は 、扉の可動性が象徴しているもの 、すなわちこの境界を超えて 、いつでも好きなときに自由な世界へとはばたいていけるという可能性によってはじめて 、その意味と尊厳を得るのだ 。

(「橋と扉」末尾)

 

川の両岸をつなぐ橋には、複数のものを分離されたものとして認識し、かつそれらを繋げようとする人間の性質が表れています。

また扉には、外の世界とプライベートを分けようとする人間の性質と、いざとなれば外の世界に飛び出ようとする人間の自由さが表れています。

 

このエッセーを読んで、改めて、橋って大事、と思いました。

 

まず、機能が大事。

僕は多摩川の近くに住んでいるのですが、橋が無ければ南武線に乗れません。

部活の大会で駒沢体育館に行ったとき、横浜の友達の家に遊びに行ったとき、あの橋が無ければどんなに不便だったことか。

ソラニン」で、ライブ前最後の練習の日に寝坊した主人公は、あの橋が無ければドラムが迎えに来れなかったし、たぶん深夜練になってた。

ヴァイオレット・エヴァーガーデン」であの赤い橋が無ければ、両国の和平は実現しなかったし、爆破されてたら和平も白紙、主要キャラも4人死んでた。

 

それと、ジンメルも言っているように、橋は芸術です。

橋がひとつの審美的な価値を帯びるのは 、分離したものをたんに現実の実用目的のために結合するだけではなく 、そうした結合を直接視覚化しているからだ 。現実の世界では身体を支えるために提供している足がかりを 、橋は目にたいしても風景の両側を結ぶために提供している 。

ジンメルの他のエッセー「取っ手」でもそうでしたが、一つの造形物であると同時に、人間にとっての機能性も兼ね備えている点で、橋も取っ手も芸術的です。

 

ただ、そもそも「芸術的」というのがどんなことなのか、僕はよく分かっていません。

ジンメルに言わせてみれば、

たとえば人間の顔についての純粋に絵画的な関心 、すなわちその形と色にだけ向かう関心もまた 、その描写が同時に最高度の内面性と精神的性格づけを内包するときに 、もっとも満足させられるのだ 。

ということらしい。

外面の美しさと同時に、その美しい内面も感じられることが、「芸術的」なのかもしれません。

 

一点、このエッセーで引っかかるところがある。

橋の場合には 、分離と結合という二つの契機が 、どちらかといえば自然が分離し 、人間が結合するという形で出会っている 。それにたいして扉では 、分離と結合が同じように 、人間の作業のなかに人間の作業として侵入してくる 。そこに 、橋と比べて 、より豊かでより生命力に満ちた扉の意義がある 。そのことは 、橋はどちらの方向に渡ってもいかなる意味の相違も生じないのにたいして 、扉はそこから入るか出るかによって 、まったく異なる意図が示されるということからもすぐに分かる 。

さすがに、いかなる意味の相違も生じないことは無いんじゃないだろうか。

確かに、橋をかけることは両岸の差異を埋めることなのですが、橋を架けた後も、両岸の異質性は維持されると思うのです。

多摩川に橋を架けたからと言って、東京と神奈川が同じになるということではないと思うのです。

(橋と扉を比べた上での記述なので、気にしすぎなのかもしれません。)

 

だらだらとすみませんでした。

以上です。