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Things you can live without knowing

「身のこなし」について(映画「パラサイト 半地下の家族」を観て)

街を歩いているとき、食事をしているとき、何かしらの行事のとき、皆さんは自分の「身のこなし」について気にしたことがあるでしょうか。

自分の「身のこなし」が、育ってきた環境に強く影響を受けているということを、意識したことがあるでしょうか。

 

ハビトゥスについて

「身のこなし」の仕組みについて考えるために、「ハビトゥス」という概念を使います。

 

ハビトゥスとは持続的かつ移転可能な諸性向のシステムである。(『実践感覚』)

ハビトゥスは、ブルデュー(1930~2002)の社会学における、重要な概念の一つです。 

実践感覚 1 新装版

実践感覚 1 新装版

 

 

上記の引用の「性向」は英語でいうところの "disposition" で、「性質」「気質」とも訳せるかもしれません。

つまり「私たちの思考や行動の指針」のようなものでしょうか。

あまりに多様な含意のある言葉なので、一言で言い表すこと自体、不適切かもしれません。

 

冒頭で述べた「身のこなし」も、このハビトゥスの一要素です。

では、「身のこなし」が育ってきた環境に強く影響されるというのは、どういうことでしょうか。

 

「諸初期経験」としての階級と家族

こうした展開のなかで、ハビトゥスは諸初期経験 ― 同一の階級の諸成員に統計的に共通である諸初期経験 ― が支配する独自な統合体となるのである。(『実践感覚』) 

 ハビトゥスは、家庭環境に多分に左右される幼児期の「諸初期経験」と、その後の人生における「新たな諸経験」の相互作用の中で形成されます。

 

「諸初期経験」によって形成されるハビトゥスを「一次ハビトゥス」、「新たな諸経験」によるハビトゥスを「二次ハビトゥス」とすると、

私たち一人ひとりのハビトゥスは、この二つの組み合わせということになり、

「身のこなし」もそのように身に着けていくものだといえます。

 

しかし、二次ハビトゥスは一次ハビトゥスに、一次ハビトゥスは「諸初期経験」に、「諸初期経験」は家庭環境・帰属する階級に強く規制されているため、

一人ひとりのハビトゥスの独自性は、帰属する階級の成員に共通するハビトゥスの、統計的最頻値の偏差にすぎません。

 

つまり、私たちの個性は多くの場合、「そういう家庭で育ってきた人」のパターンの一つということになります。

 

「僕はこの場に似合っているか?」


第72回カンヌ国際映画祭で最高賞!『パラサイト 半地下の家族』予告編

 

最近話題の映画「パラサイト 半地下の家族」でこのようなセリフがありました。

いろいろあって、ハイクラスな家庭の誕生日パーティーに招かれてしまった「半地下の家族」。

パーティーの様子を見下ろす長男がつぶやいたのが、このセリフです。

急に集まったのに、(パーティーに招かれた人々は)とても自然で、スマートだ。僕はこの場に似合っているか?

 

うろ覚えなので、正確ではありません。ただ、とにかく哀愁ただようシーンでした。

裕福な家庭に入り込んでいく「半地下の家族」、最初はどうにかこうにか上手くいきます。

でも、どうしても溶け込めない瞬間が、この映画には散りばめられています。

いくら仕事を得ても、お金を稼いでも、染み付いている「身のこなし」はなかなか変えられません。

 

悲観的な決定論なのか

私たちは、生まれ育った階級・家庭環境にただ規制される存在なのでしょうか。

私たちの個性は、ほとんど決められているものなのでしょうか。

 「身のこなし」は、そんなにも変えられないものなのでしょうか。

 

ハビトゥスは一種の変換装置です。ですから、われわれはわれわれ自身の生産活動の社会的諸条件を「再生産」しますが、それは相対的に予測不可能な仕方でのことです。("Questions de sociologie"[=加藤晴久訳]) 

人生には「予測不可能」な「変換」もつきものです。

何だかんだ、人間は毎日少しずつ変わっていくものではないでしょうか。

その小さな変化が積み重なれば、長い時間をかけて別人のようになれるかもしれません。